ところで、日本における尸林の原点はどこにあるのか?誤解を恐れずに言えば、それは稲荷神社の総本山である伏見稲荷にあるのではないか。
稲荷山を巡る「お山めぐり」は京都における最大のミステリースポットである。
広大な山域のいたるところに聖所があり、赤い鳥居と狐の像と塚と呼ばれる巨岩が乱立する光景は限りなくあやしげだ。赤い鳥居については江戸時代に一般化したとされているが、稲荷山巡礼の歴史は平安時代にさかのぼる。すでに書いたように、インド由来のダキニと日本の霊的動物である狐が融合することでお狐さんが生まれたとされるが、それがなぜ、京都の稲荷山から発生したのか?
稲荷山は紀元前から聖地として知られていた可能性があるようだが、歴史的に判明している起源としては、まずはじめに、渡来系民族である秦氏一族の墓であった。秦氏がどのような人々であったかはここでは触れないが、彼らが当時、つまり飛鳥時代において、先駆的な役割を果たしてきた人々であった。その墓が稲荷山であり、当然そこには数多くの遺体がおそらく土葬という形で埋められてきたのだが、そこに尸林の神様であるダキニが入り込んできたのはただの偶然ではない。
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まわりくどい表現をやめれば、つまり、何者かが埋められた遺骨(髑髏)を収集するために、稲荷山に侵入した。それがなぜ秦氏の遺骨だったかは不明だが、いずれにしても秦氏は当時第一級の権力者であり知識人の集団であったわけであり、その霊的パワーを狙ったことは確かである。遺骨(髑髏)にも階級があるのである。
稲荷山には塚と呼ばれる巨岩が乱立しているが、これは墓石であるかもしれない。塚には○○大明神などという名前が刻み込まれているが、これはある種の戒名である。その名付け親はあるいは髑髏を狙った侵入者であったも思われる。 遺骨を狙った宗教者の一番の目的は髑髏であるから、その他の遺骨は今も塚の下に眠っている可能性がある。もしそうであるなら、稲荷山は巨大な墓地ということになる。
(髑髏崇拝、遺骨崇拝というとどうしても猟奇的なイメージが付きまとうが、仏教世界ではさして不思議なことではない。その起源は仏舎利にある。仏舎利とはお釈迦様、つまりブッダの遺骨を指し、実際に、ブッダの死後、二百年後にこの遺骨を細かく砕き、8万以上の寺へと配布したことからその伝統は始まったが、仏舎利を所有していることは仏教寺院としての誇りであり、負のイメージはほぼ払拭されている。ただし、ブッダ自身は、自分の思想が正しく理解されなかったこと自体は不本意だったかもしれない)
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稲荷山にダキニを信奉する宗教者がやってきたとすれば、それは日本密教の開祖、空海(あるいは最澄。ただしお稲荷さんは空海系である)以後ということになるから平安時代である。もしかすると、それ以前にこれと酷似した宗教を旨にする者が稲荷山に侵入した可能性もあるが、いずれにしても、ここから日本における尸林の宗教は始まった。時代的には混沌とした中世日本のはじまりである。その序章を飾ったのがインドの秘境からやってきた悪霊ダキニであったことは非常に象徴的だ。日本の宗教はこのあたりから日本独自の道をひた走る。
ダキニはその後、この世の現世利益を叶えてくれる秘密の本尊として、あやしげな宗教者のみならず、数々 の権力者たちから秘密裏に崇拝され信仰されてきた。ダキニ信仰は広範囲に広がり、とくに関東地方を中心に、性魔術として知られる真言立川流なる異端宗教が生まれたとされるが、ダキニの歴史はつねに社会の裏側で推移していったため、インドにおけるダキニ崇拝と同じく、真実は歴史の闇の中に隠されている。
最後に、日本とインドの直接的な関係について書いておきたい。これは以前からさまざまな局面で想像していたことだが、ダキニ崇拝にしろ、あるいはその他の、中世になって突如として日本を席巻していった魔術的な文化に、インド人が直接関与していたようなことはなかったか、ということである。
メンフィス黄熱1878
魔術的な文化とひとくちに言っても、それは非常に広範囲なものである。とくに魔術的な部分としては、平安時代から興隆した修験道と陰陽道、それから当然、密教文化がその中心になる。彼らが行ったさまざまな奇跡的な魔術について、それを直接指導したようなインド人魔術師が相当数いたのではないか、という仮説である。
日本とインドは、その中間の中国を通して類似する文化を共有してきたとされているが、実際、それでは説明のつかないような不思議な符号のようなものが数多く散見できるように思っている。これを書き出すときりがないが、たとえばの話が尸林である。
すでに説明しているので繰り返さないが、そこで行われた髑髏崇拝、白骨観、真言� �川流にある性魔術など、インドとの強い関連を指し示す魔術文化が、日本には数多く存在していた、と個人的には考える。そしてたとえば、そこにインド人がいたとすれば、それはいったい誰だったのか、ということに思いをめぐらせると、ある一つの集団が浮かび上がる。
これもすでに書いたが、古代においてはカーパリカ派(頭蓋骨を首に下げているものの意)の名前で知られ、現在はナート派、あるいはさらに個性的な(人食い)アゴーリとして知られるインドの黒魔術師たちである。彼らは一般的にはサドゥと呼ばれる出家者の一派であるが、そんな彼らがダキニを携え、ヒマラヤを超え、大陸を横断して、さらに海を渡って日本に直接やってきた可能性があったのではないか。
プロの旅行者である彼らサドゥが日本にやってくるのはさして難しい話ではないが、残念ながら証拠がない。ちなみに下の写真が人食いアゴーリである。写真には見えないが、腹に人骨を隠し持っている。もちろん自分で食べた遺体の人骨である。
(アゴーリの写真はサドゥ写 真集「サドゥ 小さなシヴァたち」にも3点登場します)
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